森繁自伝 

先年なくなられた森繁久彌さんが昭和南海大地震に遭い、その顛末を『森繁自伝』に記載している。彼は戦後の食糧難の時代に、一攫千金を夢見て魚の闇販売ルート確保のために来徳。文中にでてくる「自転車屋君」の叔父が県南の当時の網元で、その網元との話し合いも首尾上々。その夜の宴会では前後不覚になるほどに泥酔し、その翌日未明に地震が発生。以下、該当部分を引用する。

【坂東】

−この喜びを一瞬にしてくつがえすものは、神の力だけである−

午前三時−。暗黒の闇がドシンと大きくゆれたと同時に、寝ている私の頭に異様な物体が落下して来て眼がさめた。はね起きた私は足を払われてステンとのめり、また何かが落ちてきた。地震だ!梁が不気味な音をたててきしみ、いまにもこの家が倒れるようである。真っ暗な中に私は死を待った。連続してゆれてくるこの驚天動地は、私を冷静にとりもどす余裕などない。ようやくゆれがおさまった時に、キナクサイ中から便所の臭気がただよって来た。私は窓を求めて走ったが、下が見えない。後で知ったのだが、そこから飛べば泥坊よけのとがったサクにつきささっていただろう。また廊下の割れたガラス戸から飛んでいたら、下は井戸であった。一度しか昇ったことのないこの建増しの三階から玄関へは、迷路もいいとこで、押し入れにつき当たり、部屋に入り、人影もない旅館の中で、「誰か−誰か−」と絶叫しながら、またまたゆれて来る中を、やっと玄関にたどりついた時は、身体の方々に血を流していた。はだしで表へ逃げ出したら、遠く提灯が動いて、「津波だ、津波が来たぞ!山へ逃げろ!」の声が闇をつんざいて聞こえて来た。「山はどこだ」山も海も分からない。腰が抜けて立ち上がれないのを、誰かがぐいと引っ張りあげてくれた。「山はどっちです」男はむんずと私をだいて山へ走った。これが紀州の大地震であった。(中略)

紀州の大地震のことについては、ことが小説より奇なので、もう少しくわしく書いてみたいのだが、どうにもちょっと心に引っかかって筆が進まない。というのは、その終末が、私にとっては喜劇として終わったのだが、案内役の自転車屋氏にとっては、まことに悲惨な結果と相成ったからである。かいつまんでお話しすると、− 翌朝、二人で自転車を飛ばして、昨日来た道を彼の家へと走ったのだが、何と、途中でびっくりした。山の中腹まで大きな船がのし上がっているし、田圃は一面の泥海と化し、屋根やら材木が折り重なって、一瞬にして起こったこの津波がどんなにひどかったかを如実に見せられた。そして、ようやく彼の村にさしかかると、海岸三メートルほどの石垣の上にあった町は、道の両側の家をきれいに洗い流してあとかたもない。「やあ、家がのうなった!」彼は足をとめて呆然と突立ってしまった。このあたりだろう…と、わずかに土台のコンクリートを探しあてたが、ここが六畳で子供たちがおっ母アとねていた所だ、こっちが土間です、ここには自転車が二十台ほど天井と土間にありましたが…

それにしても、そこが確実に自分の家だというには、これという目ぼしい何もない。わずかに大きなスパナが一挺、土間だと彼がいうくずれたセメントのくぼみに落ちていた。真っ青になった彼は、村の人が避難していると聞いた山へ走った。鳥居をくぐると、大勢の人間がうずくまったり右往左往している。恐怖の一夜があけて、うつろな顔をしている群衆の中を、声もさけよと必死になって彼は子供と妻の名を呼んだ。しかし誰も返事をしない。かけずり廻るうちに、お堂の中からゾロゾロと子供達が出て来た。六人の子供は生きていた。何という幸せだったろう。が、どうしたことか、かんじんの奥さんがいない。「母ちゃんは?」「母ちゃんなア、みんなつれてここまで来たけど、また、お金をとりにもどった−」「そいで帰って来んのか?」「うん」大粒の涙がポロポロといたいけな坊主の頬を流れた。「馬鹿たれが!なんでここにじっとしとらんかったんだ−」わなわなと口をふるわした彼は、飛ぶように走って行った。私も彼の後を求めてそのあとを追い、泥田と化した田圃の中へ入っていった。そして、それから一時間ほど、遂に無惨な対面となったのである。苦労を共にした大事な、大事な彼の妻は、泥まみれになって、田圃の桑の木にひっかかって、無惨な最期をとげていたのである。二人して顔の泥を落としてやり−、髪を洗ってやり−、着物をぬがしてやっていたら、帯の奥からポトリと財布が落ちて来た。私はなぐさめの言葉もなく彼と一緒に泣いた。(中略)私がびっくりしたことは、自転車屋氏の子供達が避難した神社に、百年ほど前、やはり同じようにこの地を襲った大地震の碑が苔むして建っていたが、その石碑の裏に、今より約九十年後にまた、このような大地震が起こると予言がキザまれていたことであった。その昔、何を根拠にどんな人がこれを予言したのか、神秘な話である。

『森繁自伝:三本のかつおぶし、無惨!津波の果て』(中公文庫)