名前は誰のもの?

私が中学生の時といえば今から40数年前になります。クラブ活動ではリードオーケストラ部に所属し、チェロを弾いていました。二年生の時から徳島市文化センターで定期公演がはじまり、最も上手にチェロを弾いた三年生がソロ演奏を披露しました。私が三年生になり、ソロの役割が回ってきたものの、ソロ演奏を披露できるまでには腕前が上がらなかったため、チェロ、フルート、ピアノのトリオで舞台に立つことになりました。現代ほど芸能活動が盛んではない時代にトリオとはいえ、中学三年生で文化センターの舞台に立つというのは大変な名誉でした。「あの文化センターの舞台で恥ずかしくない演奏を」と、連日のように夜遅くまで課題曲の練習したことを覚えています。文化センターの前を通ると今でもその当時のことを思い出します。

さて、最近各種施設の名前が企業名に変わりはじめました。財政難のために自治体が企業に命名権を購入して欲しいと依頼しているのが実情なのでしょう。しかし、施設に限らず、道路、橋、町名などにはそれぞれ歴史や意図もあり、「命名する権利は自分達にある」とばかりに、行政が施設名販売をおこない、安易に名称を変更することには賛成はできません。


【元・徳島県郷土文化会館】

郷土文化会館も今年の4月から向こう三年間、企業名ホールに変わると発表されました。郷土文化会館という名称は「徳島県民は徳島という郷土を愛して誇りに思い、その文化や芸能を保存し、発展させるためにこの会館を建てた」というメッセージが伝わり、私は好きでした。

ニューヨークにあるカーネギーホール、東京大学の安田講堂はそれぞれ鉄鋼王のカーネギー、安田財閥の安田善次郎が資金を寄付して建設されました。このように明確な理由があればそれぞれの名を残し、その遺徳をたたえる意味で個人名のホールにする意味はあるでしょう。施設を利用すれば資金提供者への感謝の思いが涌いてきます。しかし、単に命名権を取得して郷土文化会館を企業名ホールと名付けても、その企業への感謝の念も、尊敬の念も涌いてきません。虚名が漂うばかりです。

命名権販売というビジネスが日本で定着するかどうか、私には分かりません。しかし「名は体を表す」という意識が私達の頭の片隅にはあります。「体」を表さない名前、実体を伴わない名前が人の心に響くとは思えないのです。また、郷土文化会館の利用頻度が高い人ほど会館への思い入れは強く、名称変更には釈然としない思いを抱くことでしょう。

命名権販売にはどこかに歯止めがいると感じています。

【坂東】