vol.3  上那賀町平谷老人福祉センター杉風荘での災害救護

「木沢や上那賀への医療支援の必要があるなら行きます。」と意思表示していたところ、8月8日(日曜日)に上那賀町へ出務するようにと県医師会から指示があった。メンバーは田蒔病院の大智明子・川崎美寿々看護師と手束病院の中尾真司看護師との4名であった。前日には田岡病院の近藤英司医師、藤島智子・中原康詞看護師が我々と同様の日程で派遣されていた。

 午前8時過ぎに医師会館前からタクシーに乗り10時前には上那賀病院に到着した。同院からは平川看護師長の先導で避難所となっている平谷老人福祉センターまで10分少々で到着した。同所では100人弱の方が避難生活を続けており、災害発生から7日目の医療支援であった。

 屋内の仮設診察室は8畳間を少し長めに引き延ばしたほどの広さがあった。カーテンで二分し入り口のスペースを受付・問診に、奥のスペースを診察に使用していた。診察スペースには事務机と椅子、それにストレッチャーが診察台に転用され置かれていた。カルテは二号用紙の片面に通常の形式で記載することになっていた。小型の心電計も徳島県立中央病院から持ち込
まれていた。平川看護師長も加わり、看護師4名で問診・各種計測・点滴・投薬・診察介助等を担当し、私が診察するという方法で診療を行った。

 午前10時半頃から午後7時過ぎまで、昼休みの1時間をはさみ29名30回の診察があった。予想通り上気道炎が多かったが高い熱はなく、何となくのどがはしかい、体調が悪いという訴えが主であった。また便秘や不眠の訴えも多く、高血圧症や膝関節症などの基礎疾患の悪化も目立った。急性のストレス障害も見られ、PTSDへの進行も危惧された。朝、被災した自宅
に帰り復興作業をして夜に避難所に帰ってくる人達がいた。多量の発汗から低ナトリウム症状を訴えており、熱中症への対策も必要であった。私の専門が循環器であるということから、この際に一度みておいて欲しいという方も何名か受診された。

 診療が終了してから我々4名と現地で活動していた保健師4名とが集まり、検討会を開いた。救護活動での問題点、慎重な経過観察の必要な患者さんへの対応、今後発生しうる疾患の予防策など1時間近く話し合い、その要点を県の関係機関にも報告した。救護所を出発したのは午後8時過ぎで、医師会館に到着したのは10時過ぎであった。長時間の仕事ではあったが、心地よい疲労感であり10時半過ぎに帰宅した。

 今回の医療支援でいろいろと感じたことを記してみようと思う。
  今回受診された患者さんの病態をふりかえってみると、亜急性期から慢性期にかけての災害救護では一般開業医こそが十分な力を発揮できると感じた。今回、使用頻度の高い薬剤は避難所に揃えられており、不足する薬剤は平谷診療所または上那賀病院から調達される制度になっていた。必要な薬が不足する状況であっても、たとえば便秘などでは繊維性の多い食事をとる、水分を多めにとる、引きこもらず体を動かしてみるなどの生活調整法を指示できることも開業医の強みであると思う。

 一人の医師の診療可能人数であるが、平時の診療のように多数の方を診察できる訳ではない。救援医師にとっては初診の方ばかりであり、被災の程度を尋ねたりしなければならない病状の方もあり、問診に時間を要する。一人の医師が診療できる人数は1時間に4-5人と見ておいた方がよいように感じた。このため避難者数に応じて複数の医師派遣も検討する必要があると思う。今回の避難生活も今後どの程度長引くかわからない。徳島県医師会が継続的な支援を行うかどうか、現地からの要望を聞きながら検討する必要があろう。また南海大地震などの災害があれば、医師会も重要な役目を担うことになる。出来うる準備を今から初めておいた方がよいと思う。

 今回の診療に上那賀病院看護師長の平川氏が参加してくれた。現地の状況や患者さんの状態把握に優れており、診療が非常にスムーズに進行した。救護医療支援においては現地の事情に詳しい人が必須であると痛感した。

 派遣の前日に何をもっていけばよいかを考えた。テレビなどで映る避難所の様子からは避難者が手持ちぶさたで時間を持て余しているように感じたため、プロジェクターとパソコンを持参し状況によって何か医学的な話をしようと考えた。同級生でもある高井・上那賀病院長が巡視に訪れたため、講演の是非について尋ねた。被災者の興味はいつ仮設住宅に入れるかといった復興のことが主体であり、通常の講演には興味を示さないであろうとのことであったため講演は断念した。

 避難所には各地からの救援物質が運び込まれてきていたが、初期の救援物資として贈られたカップ麺がうれ残っていた。亜急性期から慢性期に至った場合には、できるだけ日常生活に近いものを援助した方がよいと思う。さらに言うなら日常以上のものを援助した方がよいと思う。たとえばすし職人を派遣して夕食にすしを握って差し入れすれば非常に喜ばれるだろう。

 子供に対してはお菓子の差し入れが多く、ダラダラとお菓子を食べる生活になり、困るとの意見があった。子供は避難所生活では退屈しやすい。テレビゲームとお菓子の生活から脱却させるために定時のラジオ体操などいろいろと工夫されていた。子供を遊ばせることの得意な人が避難所に出向けばよい活動ができると思う。今回私は花火を持参して子供さんのいるご家族に差し上げてみたが非常に喜んでくれた。

 診察した際に「遠いところを来ていただいてありがとうございます。ありがたい。」という言葉を何度も頂戴した。自分達は見捨てられていないという意識が湧くような援助が復興には必要であると感じた。

 喫煙者が被災を契機に上気道の症状を訴えていた。この際に禁煙をと勧めるのは簡単であるが、ストレスの多い状況の中ではそれも行いにくい。普段からの禁煙の勧めがさらに必要であると感じた。

 避難所での救援医療に際して「避難者の話を聞いてあげるだけで、してあげられることはなかった。」との話をよくきく。しかし、急性ストレス障害やPTSDのしくみとその対処方法を説明することで、かなりの安心感を与えることができるように思う。避難者にとってはなぜこのような症状が出現しているのかがわからず、どうすれば解決されるのかもわからないことがさらに不安感を増幅させているように感じた。その道筋を示すことで安堵感をもたらすこともできると思う。重篤化した場合は別にしてPrimary Careにおいては精神科・心療内科医でなければ支援ができないと考える必要はないと思う。

 派遣に際して服装の指定は無かったが、4人とも白衣は着用せず動きやすいラフな服装で集合していた。私は診療所で使用している作業用のズボンにポロシャツで出かけた。作業用のズボンは虎一という職人用の店で購入していたがポケットが多く、ボールペン入れ、手帳入れなどに重宝した。腰の部分はベルトを通すこともできるがゴムもはいっており、紐でさらにしめることが出来るようになっている。私は紐を軽く結ぶだけではいていたが、しゃがんでの診察などでは非常に楽であった。かつて救護服を着て救援訓練を行った経験がある。生地が厚く狭い場所では非常に動きにくかった。またベルトのバックルが大きく、しゃがみこんでの作業では腹部にバックルが食い込んで痛く、困った。どんな場所や状況にでも対応できるという救護服を用意するのではなく、救護する場所、気温、外部状況などを考えて適切な服を着ていけばよいと思う。因みに白衣は避難所には合わないと感じた。普通の服の方が避難者と精神的に一体化できやすいように思う。

 今回派遣された4名の共通した感想は医療支援に行った我々の方がかえって教わることが多かったというものであった。都合がつけば今後も災害救護には出向こうと思う。

(徳島県医師会報収載)

このページの先頭に戻る